「普通」に関する一考察

私が思うに、「普通」には個人的普通と社会的普通の2種類がある。個人的普通とは、個人がそれぞれ有するありのままの感覚としての「普通」であり、社会的普通とは、社会あるいは集団における共通認識としての「普通」である。社会的普通は多くの場合、社会/集団に属する人々の個人的普通を集約したものになるため、多数派に属する人の個人的普通そのものか、少なくともそれに近いものになる。

この区別が問題となるのは、個人的普通と社会的普通との間に差異が存在しているときである。このとき、個人的普通は数の論理に支えられた社会的普通に太刀打ちできず、その個人的普通の持ち主は社会的には「普通ではない人」になる。社会的普通の体現者たる多数派の方々から「単なる価値観の相違」などとお許しが出れば幸運だが、そうならない場合には自分の個人的普通を堅持したままその社会/集団に残るか、社会的普通に迎合するか、さもなくばその社会/集団を離れるかを選ばなくてはならない。
これらはどれも困難な道となる。まず、当然のことながら、自分の個人的普通を堅持したままその社会/集団に残ろうとすれば、多数派の方々からの「これが『普通』だ」「お前はおかしい」という攻撃に耐えなければならない。多数派の方々がすぐに折れてくれればよいが、あまり期待はしない方が賢明だろう。
また、社会的普通に迎合するためには社会的普通を理解しなければならない。しかし、この状況に置かれた人の個人的普通は社会的普通と異なっているため、社会的普通を学ぶところから始めなければならない。その上で、自分の感覚とは異なる社会的普通に迎合する苦痛(この苦痛の程度は人によるだろうが)に耐えなければならない。
そして、社会/集団を離れるという道には、金銭的な問題がつきものである。他に自分に合った社会/集団がある場合やその社会/集団が趣味的なものである場合、学生にとっては効果的でありうるが、学生を卒業してからいずれの社会/集団にも所属できないというのはすなわち、職がないということにほかならない。何らかの形で収入を得ないかぎり、自治体なり親なりのお慈悲にすがるほかなく、それが叶わない場合には死あるのみである。

散々恨み言を並べたが、結局のところ、社会を形成するのは多数派であり、「普通」を形成するのもまた多数派であるならば、それに馴染めない者が割を食うのは至極当然のことである。かずのちからってすげー!というわけで、以上、「普通ではない」側の筆者による「普通」に関する一考察でした。異論、反論お待ちしております。