自己責任(自己負担)の根源

「自己責任」という語について、皆さんはどのようにお考えだろうか。広く流布していて多くの人が知っているであろうこの語だが、私は常々その多義性や曖昧さを疑問に思っていた。あれこれと思案した結果、自分なりの自己責任論にたどり着いたので、これを電子の海に放り投げることにした次第である。

本題に入る前に、「自己責任」という語の多義性・曖昧さに言及している論文があったので引用する。

 本研究では、瀧川と松尾の理論を組み合わせ、以下のモデルを設定した。縦の軸には瀧川による自己責任が表す三つの責任の種類(自己責務を「A」、自己負担を「B」、自己原因を「C」と表記する)がある。
 横の軸には松尾が取り上げる、二つの責任の主語(集団のメンバーを「1」、自己決定する個人を「2」と表記する)がある。簡潔にいえば、集団のメンバーは、自分の責務を果たさなければならず(1A)、果たさない場合は罪が生じ(1C)、制裁を引き受けなければならない(1B)。また、自己決定する個人は、行為は自分の自由意志により決定し(2A)、うまくいかなかった場合は自分のせいであり(2C)、その結果は自分で負担しなければならない(2B)。〔中略〕これらの6つの意味は、すべて自己責任の一語で表される。

慶應義塾大学学術情報リポジトリ(KOARA) - XooNIpsより、『日本社会における「自己責任」:デジタル・ヒューマニティーズの手法を用いた自己責任の概念の歴史と言説分析(要旨)』(Blecken,Laura)p,53-54から引用〉

「自己責任」という語の多義性・曖昧さが、「責任」という部分における自己責務(お前の責務だ/お前が決めた)、自己負担(お前が引き受けろ)、自己原因(お前が悪い)の混同に起因するというのは、納得のいく説明ではないだろうか。責任の主語が云々というのは、正直あまりピンと来なかったが。逆にいえば、この混同にさえ気をつければ、「自己責任」という語の多義性・曖昧さを解消することができるということにもつながるだろう。

足場が固まったところで、「自己責任」についての私なりの結論を披露すると、それは「自己責任の根源は『その人が生きている』という点にある」というものである。なお、ここで私が意図している「自己責任」は引用の分類におけるB、すなわち自己負担である。
人は生きる以上、様々な事象によって構成される「自分の人生」なるものを否応なしに引き受けなければならない。そして、その人生においては、どんなによい事象でも起こる可能性があり、同様にどんなに悪い事象でも起こる可能性がある。
ここで問題になるのが、「生きるべきか死ぬべきか」という選択である。そのような選択(決定)をした覚えはない、との声もあるかもしれないが、「生きている」という状態は「死なない」という決定の上に成立するものである。
生きる(死なない)という決定をした以上、自分の決定によらない事象も、自分が原因ではない事象も、どんなに悪い事象でも、すべて自分の人生として引き受けなければならない。ゆえに、自己責任の根源は「その人が生きている」という点にある、というのが私の結論である。

かなり偉ぶったことを書いたような気がするが、これは私一人の頭の中でこね回しただけの理論であり、これが唯一絶対の正解だ、などとうそぶくつもりはない。異論・反論・「オマエの文章はここがおかしい!」みたいなところがあればコメントへどうぞ。お待ちしております。